本日の病院ご飯 8月5日

8月5日のお昼ご飯は、「バーベキューランチ」と銘打ったメニューでした。
バーベキュー台をみんなで囲むスタイルではなく、厨房で焼いたお肉を個室にお届けするのですが、新型コロナ感染で蔓延防止宣言下の熊本県ですからやむを得ません。ノンアルコールビールも付いていて、ビールがお好きな産後女性には気分転換をしていただけたかもしれません。

軟らかくてジューシーなお肉と香ばしいガーリックライスをほおばって幸せでした。

ちなみに、私に「お産後メニュー」が回ってくる機会はあまりありません。
普段はもう少しカロリー抑えめの食事ですので、誤解なさらないように。

 

王様のような裁判官

この文章を読んでいただいている方、裁判官についてどのようなイメージを持っていますか?

頭が良い、冷静、真摯…
私はこう思っていました。

ところが赤ちゃんの遺棄事件の裁判を傍聴するようになって、そのイメージが崩れつつあります。「こんな人に判決を委ねていいのか?」と思えるような言動をする裁判官もいました。そう思ってしまう自分がおかしいのかと思いネットで検索すると、実は問題視される裁判官がけっこう挙げられていたりします。

私が違和感を感じたケースを挙げてみます。

被告への怒りやいらだちを表情に出す裁判官

被告への質問の途中から「どうしてできなかったんですか?」と自分の感情を被告にぶつける裁判官がいました。質問するというより責めていました。裁判官は冷静に事を進める人というイメージを持っていましたので意外でした。

裁判官が義憤を感じたり、被告を罰したければ、それは量刑を下すことで行えば良いことです。法廷の場で被告を叱っても、決して被告の心に響くものではありません。被告を叱ることで裁判官や被害者の憤りを和らげることができるかもしれません。しかし乳児死体遺棄事件では既に赤ちゃんは亡くなっていますので、結局裁判官の自己満足に終わってしまうのです。むしろ感情的になってしまう裁判官が出した判決そのものの信用を損ないかねません。

裁判官は法廷の王様

検察官が陳述している最中に、裁判官が不機嫌そうに「それは前に聞いていることだから」と検察官の言葉を遮る場面がありました。検察官は直ちにかしこまって主張を引っ込めてしましました。裁判官と検察官の力関係を如実に感じた瞬間です。

この裁判官は公判前に検察官や弁護人から一定の情報を得ているので、時間の節約から無駄な部分を省きたかったのかもしれませんが、検察官の主張したい部分を尊重しても良いと思うのです。
また、判決に至る過程をわかりやすく納得できるものにするためには、裁判官が既に知っていることでも、被告や傍聴人のために改めて説明や主張をする時間があるべきとも思います。

ただ、この裁判官の言動を見ていて気付いたのは、そもそも裁判官としては被告人、マスコミ、傍聴人にも理解・納得できる開かれた裁判を目指しているのではないということです。裁判官自らの情報収集の場に過ぎないのでしょう。

裁判長には訴訟指揮権というものが与えられているそうで、法廷では圧倒的に強い立場にあります。その下では検察官も弁護人もひれ伏さなければいけないのかと感じた程です。素人の感覚では、裁判官は検察官と弁護人に敬意を払いながら真摯に耳を傾け、判決を下すものと思いがちですが、現実は必ずしもそうではないようです。

また法廷内や外の廊下では裁判所の職員さんが甲斐甲斐しく動き回ります。裁判長が一言指示すると、さっと反応して動く姿がますます裁判長の王様感を際立たせてしまいます。

「オレの法廷!」という言葉が聞こえてきそうな、そんな法廷でした。

裁判官は必ずしも人格者ではない

裁判官も色々なので当たり前かもしれませんが…。
刑事裁判では「被告人の最終陳述」という手続きがあります。
裁判官が被告に「最後に述べておきたいことがあれば、述べてください」と促します。
ところが、先の裁判官は「最後に述べたいことがあれば、述べて下さい。ただ、あなたは前回自分のことをたくさん話してくれたので手短かに…」と。
それまでの裁判官の言動から、「事務的」、「面倒くさそう」、「時間内に終わらせる」という雰囲気を感じていましたので、「ああ、やっぱり…」でした。
被告の言葉を真摯に聞くというより、公判の手続き上定められているので、半ば義務的に聞いている感じでした。
裁判官の立場からすれば、次の裁判が控えているのかもしれませんし、幾つかある裁判の一つに過ぎないのかもしれませんが、被告としては判決を宣告される前の最後の言葉です。
特に無罪を信じている被告にとって、この裁判官の言動は敬意を欠いていました。

裁判官は守られている

「自分が被告なら、こんな裁判官には判決を下してもらいたくない」と思いながら裁判所を後にしました。高圧的、事務的、義務的な裁判官の態度に怒りました。
そもそも判決を下す裁判官は法廷の場で被告、検察官、弁護人、傍聴人から敬意を持たれるような振る舞いをしなければならないのではないはずです。
このような状況を、これまで誰も疑問に感じなかったのでしょうか?

私が存じ上げている報道関係者や弁護士の方々にこの質問をぶつけてみたのですが、それはもう認識済みのことの様で、半ばあきらめモードでした。

医師の態度が悪ければ病院に苦情が寄せられます。
そのような医師を患者さんは避けるようになり、外来には閑古鳥が鳴きます。
しかし、裁判官の場合は余程の逸脱行為がなければ干されることはありません。
そもそもサービス業の医師とは異なるポジションですし、同じ公務員でも行政職、学校の先生、警察官の様に苦情を受け止めないといけない立場とも異なるのでしょう。

だから裁判員裁判

人を裁けば、一方から喜ばれても、もう一方には不満が残ります。
あるいは両者が不満を感じる判決を下さなければならないこともあるでしょう。
それだけ厳しい立場にある裁判官が、職責を全うするために特別な権限を与えられていることは理解できます。

しかし守られ、批判に晒されにくいことが一部の裁判官の独善性を招いているのではないでしょうか。「開かれた司法」が理想であることは確かです。しかし現実に法廷にいるのは、検察官や弁護人に対して圧倒的な力を持つ裁判官、物を言いにくい立場にある被告、法廷のしきたりに従わなければいけない傍聴人、現状に慣れたのか、あるいは諦めてしまったのかのようなマスコミ。多くの人が居ても、口をつぐんでいるのであれば、開かれた法廷ではなく、密室と変わらないのです。

こんなことを考えているうちに、「だから裁判員裁判なんだ!」という思いに至りました。

この制度が導入された頃は深く考えることもなかったのですが、よくよく考えてみると、裁判官というプロの仕事に素人をねじ込むのはおかしくはないですか?

刑事事件において判決を下す行為は被告の一生を左右しかねないことです。そのことに知識も経験もあるプロなら、自分の仕事場に素人を入れることは屈辱に近いことです。医師に置き換えてみれば、手術にあたって医療関係者以外の人を補助員として執刀医に付けるようなものです。私なら自分のする手術が信用されていないとショックです。

裁判員制度の目的が「裁判内容に国民の健全な社会常識を反映する」という文章を目にしました。裏を返せば、裁判官のみで作られた判決に非常識なものがあったということでしょう。

大岡裁き

先日、病院職員が長野県上田市で裁判の傍聴をしてきました。乳児遺体遺棄事件の裁判です。帰ってきた職員が裁判官のコメントに感銘を受けて帰ってきました。
「被告の顔を見ながら、同情の気持ちも伝え、諭すように語りかける」姿は先の事務的な裁判官とは違ったそうです。有罪か無罪かの結果も大事ですが、判決を下した裁判官が信頼に足りると思わせることができるかどうかも大事です。

私の裁判傍聴経験は、まだ数少ないものです。
たまたま違和感を感じる裁判官に遭遇してしまっただけで、大部分の裁判官は敬意に値すると信じたいです。

かつて『大岡越前』というドラマがありました。江戸時代の名奉行を描いた作品です。「大岡裁き」という言葉は、公正で人情味ある裁きのことを指しますが、それを体現するような名裁判官に出会ってみたいと願っています。
現場の裁判官からは笑われるかもしれませんが…

 

これが死体遺棄罪に当たるのか?

7月20日(火)、ベトナム人実習生乳児死体遺棄事件の判決が出ました。
5月17日に投稿した「気の毒です」の女性の裁判です。
懲役8ヶ月、執行猶予3年でした。

弁護団のみならず、傍聴人、報道関係者の評価は「検察劣勢で遺棄罪を立証できていない」「よくこれを起訴する気になったものだ」というものでした。
関係者は楽観的に考えていました。
私も、これで有罪はないでしょうと思っていたものですから、判決の知らせを聞いて驚きました。

判決文を見ると、「被告人がその頃出産したえい児2名の死体を段ボール箱に入れた上、自室に置き続け、もって死体を遺棄した」とあります。
死産した2名の赤ちゃんに対して彼女が行った行為は、

・部屋にあった小さめの段ボール箱にタオルを敷き、その上に赤ちゃんを寝かせ、          その上からタオルをかけた。

・赤ちゃんたちには「コイ」「クォン」という名前を付け、赤ちゃんたちへのお詫びの言葉と、「ゆっくり休んで下さい」というメッセージを書いた紙を赤ちゃんのご遺体に添えた。

・ご遺体の入った段ボールを自宅のタンスの上に置いた。

というものです。

判決文では「国民の一般的な宗教的感情を害した」ことが懲役8ヶ月の理由として述べられていますが、果たしてそれに値する行為なのでしょうか?
赤ちゃんのご遺体をゴミ集積所に置いたり、トイレの便器に放置したりすれば、尊いご遺体の尊厳を傷つけたということで、罪に問われてもやむを得ません。
しかし彼女の行った行為は、ご遺体の遺棄ではなく安置と見なすのが常識的な判断です。
また、長期間自宅に置いたままにすれば罪に問われるかもしれませんが、今回は出産してから、病院で出産の事実が明らかになるまで約24時間しか経っていません。

私は約10年前から全国で発生する赤ちゃんの遺棄・殺人事件をネットニュース上で見続けてきました。その中でも今回の事件で被告が行った行為は優秀です。出産直後の疲れ切った体と、2人の赤ちゃんの変わり果てた姿を目の当たりにする精神的なショックを抱えながら、赤ちゃんへのメッセージを添えてご遺体を安置したのですから。

これで有罪なら、自宅で死産した女性たちのほとんどが罪に問われることになります。そして、これがネットを通じて広まれば、自宅で死産した女性たちは逮捕されることを恐れて、ご遺体を隠してしまう恐れがあります。

今回の判決は犯罪を誘発しかねない事態で、今後も各地で発生する孤立出産に暗い影を落とす形になりました。

 

 

 

1950gのオマールエビ

最近は堅い話ばかりだったので、今回は別のお話を…

1950gのオマールエビです。
カナダから生きたまま空輸されてきました。
動くので医局秘書が引いていました。

向かって右側が600gのオマールエビです。
お店でよく使われるのが、このサイズだそうです。
こうすると重量差3倍には見えませんが。

立派な爪!

慈恵病院では、お産後の料理に、よく活オマールエビを使います。
今回はビッグサイズのオマールエビを美味しく提供できるかの実験でした。
普通サイズと比べると肉質が柔らかくて、エビと言うよりカニの食感です。
当院のシェフの話では、ホテルのパーティーに使われるそうです。
大きい方が見栄えがするそうで。
ただ試食した感想としては、通常サイズの方が美味しいように思います。

第三者検証委員会への不信感    その2 ~匿名を許さない~

専門部会の報告書には、「匿名を貫くことは容認できない」とあります。
子どもを守りたいという気持ちがにじみ出ている表現です。

匿名性を容認するのか否認するのか?

この議論に当たっては、どのくらいの女性が匿名性を求めているのか考える必要があります。私は1万人に1人に認める匿名性を前提としています。

私が過去に報道された事件を調べた範囲では、赤ちゃんの遺棄・殺人事件は国内で年間20~30件発生しています。報道されないケース、つまり人知れず遺棄したり殺したりの数も含めれば年間100件位は発生していると推測します。

一方、2020年の出生数は84万人、人工妊娠中絶数は14万5千人ですから、合わせて年間100万件の妊娠が発生していることになります。もっと細かく言えば、流産・死産がこの数字に入っていませんので、これも合わせると年間110万件くらいになるでしょう。

私が求めているのは、日本で発生する年間100万件の妊娠の中で、赤ちゃんの遺棄・殺人に発展しかねない年間100件について匿名性を容認してもらえませんか、という提案です。1万人に1人に認めるのです。

過去に発生した事件を振り返ると、遺棄・殺人を犯してしまった女性たちは、妊娠の事実が家族、職場に知れることを極端に恐れていました。辛い陣痛を独りで耐えてでも妊娠を知られるわけにはいかない、それくらいの覚悟の人たちです。
望まない妊娠をした女性はたくさんいますが、中でも妊娠の秘匿性を強く求めるごく一部の人たちには、別の対応をしなければ問題を解決できません。

「匿名は容認できない」の姿勢で臨めば彼女たちとの接触は望めません。
専門部会の方針では彼女たちに為す術はないことになります。

彼女たちが必死になって守ろうとしている匿名性を否定せず尊重し、かつ彼女たちを慰め、助けていけば、彼女たちは安心し100人中の8~9割が匿名性を撤回すると見込んでいます。これは今年に入って「秘密で出産したい」と申し出があったケースの経験を踏まえての推測です。

人が自らの出自を知ることは重要です。
可能なら全ての子ども達が出自を知るべきです。
しかし全ての子どもたちが享受できる訳ではありません。
「出自を知ることができない」というハンディキャップを背負う子どもが、ごく一部(1~2万人に1人)で発生することを社会が容認しなければ、赤ちゃんの遺棄・殺人の問題は前進しないと考えます。

ちなみに子どもの福祉という面で考えれば、世の中には虐待というハンディキャプを負っている子ども達がたくさんいます。例えば日本では年間19万件の虐待相談が発生しています。他の子が当たり前と思っている平和な家庭生活を送れないどころか、虐待によって精神疾患に陥ったり、脳に後遺症を残したり、亡くなってしまう子さえいます。

出自を知ることができない子どものハンディキャップも、虐待を受けている子どものハンディキャップも、悲しいことですが厳然として存在します。どんなに防止策を講じてもなくなることはありません。その存在を否認するのは現実逃避です。大事なことはハンディキャップを負った子ども達をどのように支援していくかです。

「匿名を貫くことは容認できない」という言葉は一見すると高い理想を謳っているように見えますが、予期しない・望まない妊娠の現場に直面している私には空虚を通り越して無責任にしか映りません。結局やっていることは放置ですから。

「匿名性の撤回を求めながら彼女たちと接触できるのですか?」
「どのようにして彼女たちを説得するのですか?」
こう尋ねたくなります。

ただ、この問いかけには沈黙されるのでしょう。
ここに専門部会の限界を感じます。

ちなみに、報告書の表現は正確には「最後まで匿名を貫くことは容認できない」となっています。内密出産なら容認できるという意味でしょう。
この方針についても異論があるのですが、長くなりそうですので後日お伝えしたいと思います。

 

第三者検証委員会への不信感    その1 ~机上の空論~

「こうのとりのゆりかご」専門部会は、いわゆる第三者検証委員会のことですが、
6月29日に第5期検証報告書を公表しました。

これまでの報告書と大きな変わりはないものの、「机上の空論」の印象は拭えません。「ゆりかご」の現場で女性達と接している私としては、検証委員会と女性達の溝は永遠に埋まらないのではないかと絶望感すらあります。

検証委員会は赤ちゃんの遺棄・殺人を防ぎたいと真剣に考えているのか、よもや行政から依頼を受けたので書類審査だけなさっているおつもりなのか、私には不信感があります。

そこで、今後数回に渡って検証報告への見解を述べさせていただこうと思います。

ネコの避妊手術

春になると病院の周りでネコたちが激しいケンカをします。
お気に入りの女の子を巡る争いは人間にもありますが、ほっぺたの肉がえぐれる程の傷を抱えるネコもいて痛々しいです。

一方、先日は病院の敷地内でネコが出産しました。
かわいいけれど先々のことを考えると気が重いです…
ノラネコたちにエサをあげている女性が近所にいるそうで、食べ物には困らないようですが、それでもネコが増えれば縄張り争いのケンカも増えるでしょうし。

危機感を覚えた私は、ネコの避妊手術を進めることにしました。
捕獲器で捕まえて動物病院で手術をしてもらいます。
メスが18000円、オスが13000円、とりあえず5~6匹が対象です。
避妊手術には賛否が分かれるところです。
しかしネコ間の共生、人間との共生のためにはやむを得ないのでは。

「ゆりかご」に携わっていると、避妊手術を勧めたくなる女性に遭遇することがあります。過去に複数回赤ちゃんを預けた女性にはピルや避妊リングの提案しますが、実行率が極めて低いのが現実です。

匿名で赤ちゃんを預ける「ゆりかご」ケースとは別に、名前を名乗って病院で出産して赤ちゃんを特別養子縁組にする女性と接する機会もあります。そして、これを繰り返す女性がいます。生まれた赤ちゃんは尊い存在です。しかし実母さんには将来同じことを繰り返して欲しくないのが本音です。

慈恵病院はカトリック系の病院なので避妊手術は御法度ですが、個人的には避妊手術は必要と考えています。これを表立って言えるのは、私がカトリック教徒ではないからです。イエス様の取られた行動には学ぶべきところが多々あるのですが、妊娠をコントロールできず、実母を知ることのできない赤ちゃんを次々に出産し、当の女性も悩み苦しんでいるのなら、避妊手術はあって良いのでは思うのです。

本日の病院ごはん 6月6日

昨日(6月5日)から2泊3日の当直中です。
昼ご飯はご覧のようにインド風の品々でした。
実際に目の前にあると写真以上に品数が多く見えます。
作る厨房の職員も大変だったろうなと思いながらいただきました。
味も良かったですが、花を添えたりなど見た目もきれいです。

気の毒です

 

熊本県芦北町でベトナム人実習生が双子を死産し、逮捕され起訴、裁判になろうとしています。彼女は二人の子どもに名前を付け、手元にあった段ボール箱に布を入れ、その中に子どもたちを安置し、埋葬を希望していたのですが、結局罪に問われることになりました。

私が知る限りの情報では犯罪性はなく、これで有罪なら全国で発生している自宅死産ケースの女性たちも今後危ういと心配です。

彼女を支援する方とのご縁で彼女とは面識があったのですが、釈放中の彼女がご遺骨を携えて挨拶に来てくれました。検察はなかなか赤ちゃんのご遺体を返してくれず、死産から5ヶ月経った先日にやっと火葬が実現したそうです。解剖は年初に終わっていたようですから、早くに返してあげればよかったものをと思うのですが。

彼女に初めて会ったとき、表情の幼さに痛々しい気がしました。
21歳と言えば、わが娘と年は変わりません。
自分が親だったら辛いだろうと…

日本という異国の地で働き、得たお金の多くを母国の家族に仕送りしていた頑張り屋です。産婦人科医としては、死産した女性の打ちひしがれた姿に接することがありますので、彼女の喪失感、不安感はいかばかりかと同情します。

「どうして避妊をしなかったのか」という人もいるかもしれませんが、日本では避妊できずに年間15万件の人工妊娠中絶が行われています。その背景には男性の性欲が存在するのですが、矢面に立たされるのは女性たちです。

「中絶をすればよかったものを」と考える人がいるかもしれませんが、世の中には、「お腹の中の赤ちゃんを殺すことだけはできない」と言って出産する女性がいます。人生観、価値観、倫理観は人によって様々です。

近いうちに裁判が始まるようですが、彼女の重荷が早く取れることを願っています。

 

残念な『赤ちゃんポストの真実』

6月30日に小学館から出版された『赤ちゃんポストの真実』を巡っては、数ヶ月間ゴタゴタしました。
きっかけは4月に著者から送られてきた手紙です。
6月に本を出版する旨の内容が書いてありました。

「こうのとりのゆりかご」関連の本は過去に何冊か出版されましたが、通常は事前に企画が説明され、取材や原稿チェックが重ねられた上に出来上がるものです。
今回はそのような過程もないまま、いきなりの出版通知でした。
しかもタイトルが『赤ちゃんポストの真実』という究極本を示唆するものだったため驚きました。

そしてムッとしました。

赤ちゃんの遺棄や殺人を防止する目的でスタートした「こうのとりのゆりかご」(俗称:赤ちゃんポスト)の世界は未だに分からないことばかりで、個人的には一生理解が及ばず結論も出せないだろうと思っています。
そもそも赤ちゃんの遺棄・殺人の防止は、古今東西、多くの人が試行錯誤を重ねてきたテーマです。簡単には解決できません。

このような中で真実を見出し、語るには、相応の情報収集と分析が求められるはずです。ところが、この本の著者は過去2年半慈恵病院を取材していません。

「こうのとりのゆりかご」の世界はめまぐるしく変化します。
開設当初には見えてこなかった点がわかる事もありますし、個人的には自らの考えを改めた事もあります。果たして直近の2年半もの間、慈恵病院を取材しないまま真実を描けるのでしょうか。私は再取材を行ってからの出版を提案しましたが、聞き入れてもらえませんでした。

著者は出版日の1週間前に慈恵病院を訪れ、玄関先で件の本を1冊職員に預けましたが、職員の呼び止めにも応じず、半ば逃げるように去って行ったそうです。

その本が私の手元にあります。

読んでみましたが、この本の伝えたいメッセージは、「赤ちゃんポストの真実はわからない」ではないかと感じています。究極本と思い込んでいた私の早とちりでした。実はこの本のベースとなる文章の原題は、『赤ちゃんポストの虚実』です。
著者が小学館のノンフィクション大賞に応募した作品です。
恐らく暴露本のような性格のものでしょう。

タイトルと中身に乖離がある事例は週刊誌やスポーツ紙で見かけます。過激な見出しは目を引きますが、実際に読んでみると大した内容ではなく、「なーんだ…」と思った経験をした方もいらっしゃると思います。

しかし、この本の著者は熊本日日新聞社の社員です。同社は熊本県民から信頼を寄せられる新聞社で、私も毎日購読し、私自身が影響を受けた記事・文章がたくさんあります。それだけに羊頭狗肉的なタイトル、見切り発車的な編集・出版方針は残念です。もっと取材を重ねていれば、見えてくるもの、読者に伝えるべきものが沢山あったはずです。長くなるので書きませんが、出版元の小学館の不誠実な対応にもがっかりしました。結局6月出版ありきだったようです。

政界や芸能界の暴露本ならともかく、赤ちゃんやお母さんを守りたいという「こうのとりのゆりかご」をテーマにするのなら、真摯な対応があるべきです。人を大切にする事を行動で示せない方が美辞麗句を並べても説得力がありません。

ちなみに私は2年半前、熊本日日新聞記者としての著者から取材を受けたのですが、この時の経験は苦い記憶として残っています。

彼女はそれまで「こうのとりのゆりかご」に否定的な記事を書いていました。ドイツでは赤ちゃんポストの廃止の勧告が出ていて、代わりに内密出産が成果をあげているとも述べていました。ところが私が内密出産導入の検討を表明したところ、彼女は手のひらを返したかのように内密出産を否定する取材を試みたのです。
2017年12月のことです。

当初は内密出産について一般的な質問の取材と思っていました。ところが彼女は、内密出産を実現できない証拠を引き出す質問ばかりを繰り返しました。途中から他の記者さんの取材と違うことに気付き、そしてネガティブな質問ばかりの取材に怒りました。

「あなたは、『ゆりかご』も内密出産も否定して、ではどうやって赤ちゃんの遺棄や殺人に対応しようと言うのですか?」と投げかけました。しかし彼女は「私は意見を述べる立場にないので…。次の質問を行きましょう」という感じで再びネガティブ質問を繰り返すのです。その時私の中で大げさではなく「はめられた」「これはワナだ」という思いがよぎりました。
危険だと思いました。
そこで取材を打ち切りました。
それでも2時間取材にお付き合いしたわけですから、トランプ大統領よりは誠意があると思いますが(笑)

子どもの頃は別として、私は成人して以来30年以上、「はめられた」とか「ワナだ」と思ったことがありません。それだけ平和な人生を送れたのだと思います。ただ、人にそのような思いをさせる記者は職業倫理上許されないのではないでしょうか。

取材対象者に不快な思いをさせる新聞記者が悪いとは思いません。自らにポリシーがあって、それを主張できるなら許されると思います。例えば森友学園問題で官房長官を追求した東京新聞の記者や、トランプ大統領を追求する記者です。今回の著者が自らの主張を述べてくれれば、例え私と異なる意見でも彼女に敬意を表したと思います。

私は「こうのとりのゆりかご」反対論も尊重しなければいけないと考えています。記者さんが「こうのとりのゆりかご」に異を唱えることを否定しません。しかし、ならば赤ちゃんの遺棄・殺人にどう向き合うのか、対案を提示していただく必要があります。この著者のように自らの議論は避け、誘導尋問的な、揚げ足取り的な質問を繰り返す取材姿勢はおかしいと思うのです。そして自らの主張を新聞紙面上で一方的に展開するのは、彼女が著書の中で述べている「ミスリード」に当たります。

この取材の翌日に熊本日日新聞社に抗議をしたところ、上司の方が説明と謝罪に見え、彼女は慈恵病院の担当から外されました。私も、それでこの件は終わっと受け止めていました。しかし2年半を経て彼女はまた戻ってきました。

私は人のことを悪く言うのは好きではありません。
特にこのような公の場で批判を展開するのはどうかとも思います。
しかし黙っていては、いずれ同じ事が繰り返されます。

今回の事に限らず「こうのとりのゆりかご」には、マスメディアとのトラブルが発生した過去があります。中には病院駐車場に車を停め、盗撮行為をしていた報道関係者もいました。患者さんのご主人が、それを見つけ警察に通報したので発覚しましたが、自らの成功のために、そこまでする人さえいます。

「赤ちゃんポスト」というシステムはインパクトがあるだけに、いじられやすいのだと思います。しかし、メディアの方々には、その取材・発信行為が果たして孤立した母子のためなのか、自分のためなのか、問い直しながら接していただきたいのです。

最後に『赤ちゃんポストの真実』の著者が批判だけでなく、「孤立化した母子にどう対応すべきか」というテーマに建設的、現実的な意見を寄せてくれることを願います。