王様のような裁判官

この文章を読んでいただいている方、裁判官についてどのようなイメージを持っていますか?

頭が良い、冷静、真摯…
私はこう思っていました。

ところが赤ちゃんの遺棄事件の裁判を傍聴するようになって、そのイメージが崩れつつあります。「こんな人に判決を委ねていいのか?」と思えるような言動をする裁判官もいました。そう思ってしまう自分がおかしいのかと思いネットで検索すると、実は問題視される裁判官がけっこう挙げられていたりします。

私が違和感を感じたケースを挙げてみます。

被告への怒りやいらだちを表情に出す裁判官

被告への質問の途中から「どうしてできなかったんですか?」と自分の感情を被告にぶつける裁判官がいました。質問するというより責めていました。裁判官は冷静に事を進める人というイメージを持っていましたので意外でした。

裁判官が義憤を感じたり、被告を罰したければ、それは量刑を下すことで行えば良いことです。法廷の場で被告を叱っても、決して被告の心に響くものではありません。被告を叱ることで裁判官や被害者の憤りを和らげることができるかもしれません。しかし乳児死体遺棄事件では既に赤ちゃんは亡くなっていますので、結局裁判官の自己満足に終わってしまうのです。むしろ感情的になってしまう裁判官が出した判決そのものの信用を損ないかねません。

裁判官は法廷の王様

検察官が陳述している最中に、裁判官が不機嫌そうに「それは前に聞いていることだから」と検察官の言葉を遮る場面がありました。検察官は直ちにかしこまって主張を引っ込めてしましました。裁判官と検察官の力関係を如実に感じた瞬間です。

この裁判官は公判前に検察官や弁護人から一定の情報を得ているので、時間の節約から無駄な部分を省きたかったのかもしれませんが、検察官の主張したい部分を尊重しても良いと思うのです。
また、判決に至る過程をわかりやすく納得できるものにするためには、裁判官が既に知っていることでも、被告や傍聴人のために改めて説明や主張をする時間があるべきとも思います。

ただ、この裁判官の言動を見ていて気付いたのは、そもそも裁判官としては被告人、マスコミ、傍聴人にも理解・納得できる開かれた裁判を目指しているのではないということです。裁判官自らの情報収集の場に過ぎないのでしょう。

裁判長には訴訟指揮権というものが与えられているそうで、法廷では圧倒的に強い立場にあります。その下では検察官も弁護人もひれ伏さなければいけないのかと感じた程です。素人の感覚では、裁判官は検察官と弁護人に敬意を払いながら真摯に耳を傾け、判決を下すものと思いがちですが、現実は必ずしもそうではないようです。

また法廷内や外の廊下では裁判所の職員さんが甲斐甲斐しく動き回ります。裁判長が一言指示すると、さっと反応して動く姿がますます裁判長の王様感を際立たせてしまいます。

「オレの法廷!」という言葉が聞こえてきそうな、そんな法廷でした。

裁判官は必ずしも人格者ではない

裁判官も色々なので当たり前かもしれませんが…。
刑事裁判では「被告人の最終陳述」という手続きがあります。
裁判官が被告に「最後に述べておきたいことがあれば、述べてください」と促します。
ところが、先の裁判官は「最後に述べたいことがあれば、述べて下さい。ただ、あなたは前回自分のことをたくさん話してくれたので手短かに…」と。
それまでの裁判官の言動から、「事務的」、「面倒くさそう」、「時間内に終わらせる」という雰囲気を感じていましたので、「ああ、やっぱり…」でした。
被告の言葉を真摯に聞くというより、公判の手続き上定められているので、半ば義務的に聞いている感じでした。
裁判官の立場からすれば、次の裁判が控えているのかもしれませんし、幾つかある裁判の一つに過ぎないのかもしれませんが、被告としては判決を宣告される前の最後の言葉です。
特に無罪を信じている被告にとって、この裁判官の言動は敬意を欠いていました。

裁判官は守られている

「自分が被告なら、こんな裁判官には判決を下してもらいたくない」と思いながら裁判所を後にしました。高圧的、事務的、義務的な裁判官の態度に怒りました。
そもそも判決を下す裁判官は法廷の場で被告、検察官、弁護人、傍聴人から敬意を持たれるような振る舞いをしなければならないのではないはずです。
このような状況を、これまで誰も疑問に感じなかったのでしょうか?

私が存じ上げている報道関係者や弁護士の方々にこの質問をぶつけてみたのですが、それはもう認識済みのことの様で、半ばあきらめモードでした。

医師の態度が悪ければ病院に苦情が寄せられます。
そのような医師を患者さんは避けるようになり、外来には閑古鳥が鳴きます。
しかし、裁判官の場合は余程の逸脱行為がなければ干されることはありません。
そもそもサービス業の医師とは異なるポジションですし、同じ公務員でも行政職、学校の先生、警察官の様に苦情を受け止めないといけない立場とも異なるのでしょう。

だから裁判員裁判

人を裁けば、一方から喜ばれても、もう一方には不満が残ります。
あるいは両者が不満を感じる判決を下さなければならないこともあるでしょう。
それだけ厳しい立場にある裁判官が、職責を全うするために特別な権限を与えられていることは理解できます。

しかし守られ、批判に晒されにくいことが一部の裁判官の独善性を招いているのではないでしょうか。「開かれた司法」が理想であることは確かです。しかし現実に法廷にいるのは、検察官や弁護人に対して圧倒的な力を持つ裁判官、物を言いにくい立場にある被告、法廷のしきたりに従わなければいけない傍聴人、現状に慣れたのか、あるいは諦めてしまったのかのようなマスコミ。多くの人が居ても、口をつぐんでいるのであれば、開かれた法廷ではなく、密室と変わらないのです。

こんなことを考えているうちに、「だから裁判員裁判なんだ!」という思いに至りました。

この制度が導入された頃は深く考えることもなかったのですが、よくよく考えてみると、裁判官というプロの仕事に素人をねじ込むのはおかしくはないですか?

刑事事件において判決を下す行為は被告の一生を左右しかねないことです。そのことに知識も経験もあるプロなら、自分の仕事場に素人を入れることは屈辱に近いことです。医師に置き換えてみれば、手術にあたって医療関係者以外の人を補助員として執刀医に付けるようなものです。私なら自分のする手術が信用されていないとショックです。

裁判員制度の目的が「裁判内容に国民の健全な社会常識を反映する」という文章を目にしました。裏を返せば、裁判官のみで作られた判決に非常識なものがあったということでしょう。

大岡裁き

先日、病院職員が長野県上田市で裁判の傍聴をしてきました。乳児遺体遺棄事件の裁判です。帰ってきた職員が裁判官のコメントに感銘を受けて帰ってきました。
「被告の顔を見ながら、同情の気持ちも伝え、諭すように語りかける」姿は先の事務的な裁判官とは違ったそうです。有罪か無罪かの結果も大事ですが、判決を下した裁判官が信頼に足りると思わせることができるかどうかも大事です。

私の裁判傍聴経験は、まだ数少ないものです。
たまたま違和感を感じる裁判官に遭遇してしまっただけで、大部分の裁判官は敬意に値すると信じたいです。

かつて『大岡越前』というドラマがありました。江戸時代の名奉行を描いた作品です。「大岡裁き」という言葉は、公正で人情味ある裁きのことを指しますが、それを体現するような名裁判官に出会ってみたいと願っています。
現場の裁判官からは笑われるかもしれませんが…